わからなさへ向けて

晩期フーコーの思想を位置づけるのは難しい、というのはフーコー研究者には共通している感想かなと思われます。
なぜ、フーコー古代ギリシャ・ローマの哲学研究へと向かったのか。
最近フランスで出版された本に、『不連続の思考』というのがありましたが、だいたい、その手の議論をまとめるとこんな感じになります、きっと。
フーコーの思考法の本質的な部分とは、「逃走」である。
わたしたちの思考の枠組を暗に支え、規制しているエピステモロジーからの逃走、自分たちの行動を言説的・物理的に制限する権力関係からの逃走、云々…。
そして、最後には、フーコーは自分流の研究の仕方、つまり専門の近代史や、よく使う術語(権力とか主体とか)からさえ「逃走」してしまった。
そして、古代ギリシャ・ローマにおける哲学者・市民の「自己陶冶」、「生存の美学」という、それまでのフーコーの読者からしたら、およそフーコー「らしからぬ」著作を記した。
しかし、このような読者の期待を裏切る形で出版されたフーコーの晩期テクストは、その実、フーコーの思想の本質的部分である「逃走」の思考を、パフォーマティブに実践したものである。
多分、このようなロジックだと思われます。
このような解釈にたいする不満は、一見ラディカルに見えるこのような解釈は、実は非常に形式的なものである、という点です。
誰にでもけっこう当てはまる。
デリダの中期テクストはパフォーマティブである(『存在論的・郵便的』)、あるいは後期ハイデガーの詩的テクストもそういえるのかもしれません。
しかし、このような解釈は、フーコー、ひいては各々の思想家の固有のテキストと向かい合っていない、というてんに、ぼくはむずがゆさを覚えます。
では、晩期フーコーのテキストにどのような解釈を代替案として与えるのか。
極度に単純化して言えば、「わかること」からはじめて「わからないこと」へと到達するのが対話の倫理であり、知性の使い道である、と。
これだけでは何も言っていないのに等しいので、幾つかの傍証を引きます。
まずはヘーゲルの影響です。
フーコーヘーゲルについて語ることが少ないように思われますが、『主体の解釈学』の最後のしめくくりのときに、ヘーゲルの名を挙げて「西洋哲学の完成者」と述べています。
どの意味でそうなのかを理解するのは難しいのですが、おそらくは『精神現象学』における、ヘーゲルの体系的な弁証法を参照しているのだろうと、現時点では考えています。
これは非常に安直な解釈でもう少し深く読み込むべきでしょうが、およそ、ヘーゲル弁証法は「わからないこと」から「分かること」へと進行します。
二つの相反するテーゼの後には、両者を統合する、あるいは両者を基礎付ける総合が出現します。
この総合へと向かう体系的弁証法にたいして、フーコー流の対話は逆方向へと向かいます。
そうフーコーが考えていたふしを示す例として、彼が分析するプラトンのテキストの選び方が特徴的である、という事実が挙げられるかと思います。
なぜ『国家』、『法律』はだめで、『ラケス』、『小ヒッピアス』はいいのか。
それは、前者に置いては、対話はソクラテスによって美しき統合へと到達する一方で、後者の初期プラトン対話篇では、対話がたいてい結論に達することなく終わってしまうからです。
興味深いのは、「勇気」や「嘘」といった誰もがわかっていると思う概念が、その実はまったく定義できず、わからないものであったという暴露の構造が、初期対話篇にあることです。
この「わかること」から「わからないこと」へと進む対話というのが、フーコーをひきつけたのではないか、というのが現時点での考えです。
もちろん、政治的な関心からパレーシア講義を行っていたという言い方も出来るでしょう。
たとえば、王に対する進言としてのパレーシア(フーコー自身も時の大統領から知識人として招かれて話した)。
しかし、このような「わからない」へと向かう対話の条件を探索することにも、晩年のフーコーが関心を持っていたということは、少なくとも言いうるのではないでしょうか。
このような「わからなさ」という亀裂を軸とした対話のなかに、最晩年コレージュドフランス講義のソクラテス対話篇を使った精神指導やディアレクティケー、師と弟子の関係の研究が位置づけられているはずです、きっと。
ここから先の個別的研究(『パイドロス』は?『ゴルギアス』は?結論でてるじゃん?初期フーコーの、たとえば「外の思考」と何が違うの?などのツッコミ)は今後の課題として、今回はこのあたりで。