les mafias nucléaires existent-ils en réalité ?

Tous les centrals nucléaires au Japon se sont arrêtées le 05 mai. Il s'agit d'un moment historique depuis l'installation de la première centrale nucléaire au début des années 70. Cet arrêt a suscité, bien entendu, de vifs débats sur le pro et le con de cette décision inédite. Ici, je vais disctuer seuelemnt un des problèmes qui s'y posent : celui des mafias nucléaires.

Au Japon, on dit souvent les mafias nucléaires (genpatsu-mafia) pour expliquer la situation catastrophique de l'administration japonaise de l'enérgie nucléaire. On n'éprouve pas beaucoup de difficulté pour consentir que ceux qui s'occoupent de nos jours de la politique nucléaire, y compris des spécialistes en cette matière et des hauts fonctionnaires qui s'y engagent, essaient de mettre le nucléaire à leur bénéfice ; ils monopolisent l'énérgie nucléaire sans se soucier du bien public. D'où vient cette nomination de mafia nucléaire.

Cependant, on peut et doit se poser la question de savoir s'ils existent en réalité ou pas. Est-il vraiment vrai que ces mafias se servent exclusivement de l'énérgie nucléaire simplement par leur méchanceté monstrueuse et diabolique ?

La conséquence éventuelle de cette affirmation est que, une fois que ces mafias sont éliminés, on aurait un monde paisible où il n'y aurait aucune méchanceté d'employer la centrale nucléaire à son profit. On devrait simplement jeter à la poubelle tous ceux qui s'engagent dans ce domaine.
Il me semble, pourtant que ce type de point de vue peut risquer de ne pas être susceptible de changer de la réalité, même si on y pense par sa bonne volonté de rendre meilleure la situation actuelle. Pourquoi ? Parce que l'idée de ce genre traduit, malgré sa bonne volotné, son désir de ne pas voir le fait qu'il est lui-même engagé dans ce processus de la création de la mauvaise situation présente dans laquelle il se trouve.

Cela ne veut pas dire qu'ils en ont profité directement ; c'est n'est pas que le peuple gagne de l'argent immédiatement par l'administration nucléaire, alors qu'en effet les habitants à proximité de la centrale en ont gagné une somme importante. La circonstance est beaucoup plus compliquée que cela. Il y aurait énormément de raisons dont je ne peux citer ici qu'un peu.

On doit d'abord rappeler l'influence démesurée du libéralisme qui ne cesse de se propager à l'échelle mondial ; comme ailleurs, il occupe une place prévilégiée dans la pensée et l'action de la plupart de japonais. Ici, ce que j'entends par le mot libéralisme, je veux dire plus une certaine attitude qu'une théorie dans le domaine de la science ; c'est-à-dire que le consommateur ne se soucie que de maximiser l'efficacité d'achat la rentabilité et qu'il néglige les autres aspects, car ils ne peuent pas apparaître dans un bilan. Cette attitude libérarliste fait apparaître simultanément l'exploitation de la centrale nucléaire, car elle produit l'éléctricité à prix bas "à court terme". Je mets ce mont entre parenthèses pour la raison suivrante :

池田信夫批判の続き
(僕の中で続きなだけで、まだ一個目を書いていません。ごめんなさい。)

全文は長いので要約しつつコメントしていきます。
一つ目。
「30%の関税撤廃で牛肉価格が下がり、今まで1ヶ月に700gしか食えなかった消費者が1kg食べるようになる。」
ここでまずいのは関税を撤廃したら価格が3割下がり、消費が3割増えるとすると、という不可思議な仮定。
そんなに池田は牛肉が好きなのだろうか。
常識的に考えると、牛肉で浮いたお金を、他の嗜好品の消費(お酒、タバコ、漫画など)に移すだろう。
ここでも、池田は仮定と前提とをあべこべにしてしまっている。

次。
「消費者の利益(B+C)が1700億円に対して生産者の損失(B−E)は1200億円。生産者の一人負けに見えるが、消費者が得た利益を生産者に所得移転すれば、結果的に日本に浮きがね=利益の500億円が入ったことになる」。
ここは重要なので、池田自身の文を載せます。
「日本経済全体として自由化の利益が損失より大きいことは明らかだが、生産者が損することも明らかだ。つまり貿易自由化は生産者から消費者への所得移転だが、これはゼロサムゲームではない。生産者にB−Eに相当する額を所得補償すれば所得分配にも中立になり、経済の効率は上がる。これがWTOの方針であり、民主党の提案した農業戸別補償のもともとの考え方だ(今は単なるバラマキになってしまったが)。
つまり関税を廃止して所得補償に変えれば、農家の所得を同じに保っても消費者は利益を得る。日本は農業に比較優位はないので、農家が他の産業に転換することで生産性も上がる。ところが内閣府経産省も輸出増だけを考えているので、メリットが見えない。おそらく反対派のいうように、TPPによって輸入増が輸出増を上回るだろう。それは日本にとっていいことなのだ」

池田の考えが本質的にまずい点は、「適正な分配」という理想を前提と取り間違えてしまっている点である。
適正な分配が前提足りうる(つまり、容易)ならば、どうして「バラマキ」が生じるのか。
政治家とその地方の支持基盤である農家との結託が強いから。
つまり、「腐敗」しているから。
これを認めてしまうということは、「適正な分配」は安易に前提にはできない、ということを暗に認めているようなものである。
池田自身はさらっと「今は単なるバラマキになってしまったが」と書いているが、これは些細な事実ではない。
私たちのよく知るように、現実にはこのように上手くいかない人と人との結びつきがごまんとある。
国際間でも国内でもそれは同じだ。


人は理論で物を見ようとするときに、この「現実の難しさ」を忘れてしまう。
池田のエントリは、この知性の落とし穴をよく私たちに見せてくれる。
その意味で、池田は教化的な人間であろう。
もちろん、「反面教師」なのだが。

(補足)
上述の引用には、他にもまずい点がある。
「労働者を比較優位の産業に一点集中させる」と池田は書くが、これは疑わしい。
別のところで、池田は「パソコン産業とバラ産業の比較優位」を論じていたが、バラ産業に従事していた人たちの失業はどうするのだろうか。
万が一全員、他国のパソコン産業に移せたとしても、「昨日までバラを栽培していた人」がいきなり今日からパソコンを作れるのだろうか?
人の移動のコストはともかくとして、技術を一から教え込むコストが別にかかるのではないのか?
「単純労働だからスキルはいらない」と本気でいうつもりだろうか?
単純労働の代名詞であるマックジョブでさえ、仕事には難易度ががあるのだが。
いわんや、自然を相手にするバラ産業はたいへんだと思う(経験していないから分からないけど)。

何が抵抗なのか?−潜在性を現実のものとすることとして「自己への配慮」

『ゴーストの条件』…現代におけるキャラクターは、ある種の容器(ゴースト)として機能している。つまり、キャラクターは「空っぽ」ってことであり(もしくは、人はその容器に「自己投影」をしている、ってことかもしれないけど、「からっぽ」だとして話を進めます)、キャラクター群は物語を通して厚みを帯びる「登場人物」として受容されることもあるが、その契機はどんどん少なくなっている。むしろ、キャラクターは形式的条件(いわゆる「萌え要素」)によって規定され、受容されているのではないだろうか。たとえば、〜はx(巨乳・貧乳メガネ、金髪、ツンデレ、ロリキャラ、お姉さん、云々…)。その背景には、私たち自身も、ますます形式化されていく事態があるだろう。たとえば、〜はx(東大卒、Fラン、年収1000万、足が短い、顔が可愛い、イケメン、不細工、キャンキャン系…)。ますます近代化する社会にあっては、「人は見た目が九割」という発想も間違いではない。現に、わたし自身も人をまずは見た目で判断している。その上で付き合ってみると、思ってもなかった一面とかが垣間見られて、厚みのある「人間」としてその人が見られるようになっていく。
 このような、人を外見、形式で判断すること、「キャラ化」は、権力諸関係と無関係ではない。フーコーのいう権力関係とは、端的に言って、物と物、人と物、人と人との「関係の様態」である。決して、権力とは「あいつは権力をもっている」という「所有」の形式では語られないことに留意したい。たとえば、ミクシィフェイスブックなどSNSのインターフェースを通じて、私たちは人を形式で判断する思考に馴染んでいる。だいいち、「友達」の多さ・少なさは友達の「人数」で現れる。そこで「広げようマイミクの輪」のような、友達と交流するのではなく「マイミク」を増やすような発想が出てくる。
 さて、フーコーによれば権力関係の様態は大別して三つあるという。主権権力、規律訓練権力、生政治権力だ(もっとも、フーコーは「司牧権力」等の用語を導入して、この区分を見返すこともあったようだが)。主権権力は誰か一人に絶対的な権力がある事態を指す。権力者にとって、臣下(主体)は「殺すか、生きるままに放っておくか」の対象である。ところが、生権力(規律、生政治)にあっては、主体は「生かす、か死ぬままに放っておく」となる。権力関係の戦略は主体を「生かす」ことに重点を置く。したがって、公衆衛生や医療制度の発展を、権力関係は担うことになるであろう。
 「権力はつねに抵抗を共にする」というフーコーの言明は必要以上に難しく取られている感がある。端的にはこういう状態をフーコーは想定している。マクドナルドの店内に設置されたベンチに座るか否か。会社の側は店のそこかしこに座られたのでは商売上がったりので、イスを設置して、そこに座らせるようにする。もちろん、わたしたちは無反省に、店内で商品を購入したら、イスに座って食事を取る。しかし、こうしないこともできる。この多かれ少なかれ残された「不服従」の可能性をフーコーは「抵抗」と呼んでいる。この「曖昧な余地」で「従わせる―従わない」のゲームを行っている空間こそ、フーコーが「権力関係」と呼んだものの本質であり、それ以上でもそれ以下でもない。そういわれてみれば、こんな程度の事態は日常のどこにだって存在するだろう。これがフーコーが「権力はいたるところにある」と言っていることの内実である。パリの市内で自転車をこいでいるフーコーは、車とすれ違ったときに出さえ「権力関係」を感じ取っていたらしい(パラノイアな感じがしますが…)。
 この「服従をもとめる」規範にかんしては、道徳的なものと物質的なものがある。例えば「交通ルールを守りましょう」というのも、道徳の形式を取って人の行動をコントロールしようとする手段の一例である。かつては、この道徳の教えだけで、人はきちんと交通ルールも守っていた(らしい。犯罪率の例が示すように、過去は過度に美化されるので、実際にルール違反が今より少なかったかは分かりません。重要なのは、道徳規範が支配的に機能していた、ということです)
 他方、自動改札の例は物質的である。切符を通さないと改札があかない。東京に住んでいればほぼ皆があきらめて切符を買わされるが、フランスは自動改札など一切気にせず優雅に飛び越えている人が沢山いる。余談だが、フランスは改札のとび越えをその場で防ごうとはしない(日本だったらおそらく駅員が駆けつけてきて取り押さえるのだろうが)。そうではなく、定期的にチケットコントロールを車内や駅構内で行い、そこで切符をもっていない人にかなり高い金額を請求して、それで帳尻を合わせようとしているようだ。この点において、日本の切符事情は「規律的」(100パーセント切符を買わせようとし、かっていないものはその場その場で捉える、ミクロな視点。?)であるのに対して、フランスの切符事情は「生政治的」(結果として、全員が切符を買ったような金額を会社が得られればよい、という考え。マクロな視点。個々の人が必ず切符を買っているかどうかは、それほど問題に放っていない)。
 さらに言うと、このような背景には、民衆を道徳的にコントロールすることが可能かどうか、という「お国事情」がある。日本はかなり人種的は安定している国であり、学校・地域でおこなう道徳教育が比較的うまく機能し、行き渡っている。それに対して、フランスはヨーロッパ随一の「移民国家」であり、道徳規範を全人口に安定して行き渡らせる手段が乏しい。したがって、各人の規律を正す(個別のケースに拘泥する)よりは、よりマクロな視点からコントロールをするほうが「有益」であると考えられるのであろう。
 ここで権力関係を理解する上で重要な区別が出てきた。それは規律は、ミクロなレベル(つまり個人)を対象とし、そのため各人に行動を規制するがゆえに「過剰」になりがちである。他方、生政治は集団として人を統計的に処理するために、1か0かという発想はとらない。むしろ、平準化した際の数値を基準にして、介入を判断している。
 そして、権力関係のあり方は、範として個人のあり方にも影響を及ぼす。たとえば、規律的な権力関係が優勢であるところにおいて、人は「かけがえのない個人」となる。どういうことか。規律的権力関係の場にあっては、個人は徹底的に情報化される。生年月日、住所、氏名、から学校のテストでは各教科それぞれ何点を取り、日常の振る舞いは問題がなく〜。かくして、ある人間はずっと「その人」であり続ける。人格の多重化を論じつつ、「純粋に論理的に考えるならば、一般には、なぜ人格が解離せずに統一的なままに留まっているのか、ということの方が不思議なことである」と言い、「多重人格に陥らない一般の人には、あらゆる状況を貫通する骨太の同一性(アイデンティティ)や心理的な継続線が、あるのだろうか。そんなものはあるまい。私の同一性とは、結局、その都度の間主観的な関係のゲームの中で、割り振られた役割にほかなるまい」と指摘する大澤は正しい。この役割を振ってくる「間主観的な関係のゲーム」は、私たちが「規律」権力関係と名づけたものと同一である。
 ところで、権力関係の様態には「生政治」があることを思い出したい。これは統計的・確率的手法を用いて、結果を平準化することを目的とする。たとえば、各地域での犯罪発生率を調べ、その中で低い数値を「モデル」にして、犯罪発生率の高い地域の率をモデルにまで下げるように(例えば警察の監視を強化したり、住民の自主的な見回りを増やしたりする)ことである。他にも、「出生率」や「平均寿命」なども、生政治の特権的な領域であることに留意しておこう。では、生政治的な権力関係はどのように個人に影響を及ぼすのであろうか。
 おそらく、人は「他人と入れ替え可能な自分」を見いだすであろう。しばしば大澤が引き合いに出す例だが、阪神淡路大震災のときに夫に目の前で死なれた妻は「死ぬのは夫ではなく自分だったかもしれない」という感覚におそわれたという。「ひょっとしたらあの時殺されていたの自分だったかもしれない…」などの感覚である。「偶有性」こそが、生権力の関係のモデルが個人に及ぼすものである。偶有性は「人間が超歴史的に、本来的にもつ感覚」であるというよりは、むしろ特殊なタイプの権力関係のもたらした効果である。
 「生きづらさについて」という萱野の対談がある。本書は、「生きづらい」と感じる若者たちが、右翼的な活動に傾倒していくことを報告している。なぜか。自分の所属先がなく、グローバルな市場競争のもとで低賃金で働かされていると、自分の根拠がなくなっていると感じ、それが分かりやすい「日本国民」という御旗のもとに逃避してしまうという。
フランスでも移民排斥の運動は盛んであり、その中心的な担い手はやはり低所得層、不安定な雇用に従事する「フランス人(見た目がアフリカ系にもアラブ系でもない、というだけのことである)」たちであるという。
 生権力タイプの権力関係がもつ問題として、生命がコントロールされているということがよく挙げられる。自分自身の生命に対する把握がきかなくなっている、ということは確かに問題である。また、インフルエンザの予防として、体温監視カメラを導入し、37度以上の人間は「本人の自覚症状とは関係なく」呼び止められてしまい、検査を強要される。これは非常に気味の悪い出来事である。
 しかし、上述したもの以外の問題として、「人生の偶有性」という問題もまた生権力によって生じることは指摘しおくほうがよいであろう。規律権力関係は人を「個人化し、同一人物であり続けること」を要求する。他方で、生政治は人を「確率的なもの」にしてしまう(もっとも、茂木健一郎が指摘するように、「70%生きて、30%死んでいる」というのは、本来はナンセンスであるのだが)
 ところで、フーコーによれば、現代の政治闘争が要求する(すべき)ものとは、「根源的な欲求であり人間の具体的な本質として、彼の潜在的な力の成就であり可能なものの充満として了解された生で」であり、「権利よりも遥かに生のほうが、その時、政治的闘争の賭金=目的となった」のである。「生命への、身体への、健康への、幸福への、欲求の満足への『権利』、あらゆる弾圧や『疎外』を越えて、人がそうであるところのもの、人がそうありうるところのすべてを再発見する『権利』」を求めることが今日的課題である述べている(『知への意志』、p. 183。)
 ドゥルーズはまた「権力が生―権力となるとき、抵抗は、生の権力となり、種や、環境や、何らかのダイアグラムの経路に拘束されることのない生命の権力となる」といい、「人間の死に抵抗する力と機能の総体は、人間のなかにこそ、追求されるべき」と考えていたと言う。スピノザを引き、「人間の身体が、人間の様々な規律から解放されるとき、この身体にとって可能なことは測りしれない」とドゥルーズは述べる。
 しかし、「可能なもの」を追求することで、私たちはどうなってしまうのだろうか。確かに、私たちは「可能性が満ちている」。小林秀雄も述べたように、私たちはパイロットにも教師にも政治家にも「なれたかもしれない」。しかし、「私は私以外のものにはなれなかった」。人は可能性のなかを生きることはできないであろう。その場合には、私たちは「何でもないもの」になってしまう。その潜在力を少しずつ導いてやり、一つの「作品」へと向かわせることが肝要なのであろう。「あらゆる規律から解放されよ」というスローガンはラディカルに見えるが、結局はむなしい結果に終わるのみである。そのことを発見したがために、フーコーは晩年に、可能性の現実化に関する思考を求めて、「自己」への配慮を説いたのである。
 この「修行」とその欠如は、現代のキーワードの一つである。養老はある本で今日のマンガのなかでは、修行の表現があまり見られなくなってきている、と述べていた。実際に、現代のスポーツ・格闘もののマンガにおいては、主人公は「最初から強い」のが多い(テニプリとかね)。また、コンサルタント等のビジネスマンによる仕事に対して内田樹がつけた文句は、「無時間的である」というものであった。mixiとかでも、友達の数は「マイミクの数」で表現されるものであり、時間をともにしたかどうかと言うパラメーターはあまり考慮されていない。若者の恋愛事情を述べる中で、宮台が若者に「関係の履歴」(時間性)をカウントしろ、と説いていたことも、ひっくりかえせば若者の恋愛はその場かぎりのタブロー化しているという考えがあるのだろう。かくして、現代の思考のパラダイムは「空間的」となりつつある。それは、一度はフーコーが「時間的」に対して切り開いたパラダイムであろう。
 フーコーは渡辺との対談の中で、自分の仕事を「空間的」と形容している。ベルグソンから多大な影響を(誤った形で)受けた彼の前の世代について、フーコーはある対談でこう述べている。「その特徴は、時間の分析を特権視し、しかもそのためには、空間を、死んだ、凝固したものとして無視していく態度にあると言えます。(哲学の舞台)」。それに対して、ブランショの『文学空間』やゴダールの『気狂いピエロ』は、空間の問題を扱っている。「しかし私には、<空間>がどのようにして<歴史>の一部をなしていたかを理化する」のが重要だと見えた。
 ところで、フーコーはこの講演の中で面白いことを述べている。彼の術語である「事件」について述べている。渡辺による、ヨーロッパ植民地主義の周縁と空間の問題構成化がほぼ同時期であるという指摘を受けて、フーコーは次のように述べている。
 
「第一には、ヨーロッパの空間だけが本来的な空間ではなく、一連の多形的な空間があるという自覚。第二には、唯一の歴史があるのではなく、幾つもの歴史、幾つもの持続、幾つもの時間が存在するのであり、それらが複雑に絡み合い、交叉する、そしてまさにこの交叉から<事件>が形成されるという自覚です。<事件>とは、<時間の線分>ではなく、二つの持続、二つの速度、二つの進展、二つの歴史の線の間の交叉点に他ならないのです。(哲学の舞台、p.33−34)」

私たちは現在、この「空間」のパラダイムがよりラディカルになった時代にある、と考えられるだろう。そこでは、時間は二次的になり、「修行」や「自己への配慮」といった私的な時間経験の喪失だけではなく、制度設計としての「政治的なるもの」への過度の系統もまた時間の喪失に他ならない(なぜなら、最も善い政治制度を適用すればどこでも同じ結果が得られる、という短絡にもとづいているからである)。もちろん、フーコーベルグソンベルグソン主義者を峻別して、安易な時間の特権視を後者のせいにしたのとどうように、フーコー自身とフーコー主義者(?)は区別されねばならない。そして、後者に「空間(タブロー)の特権視、と時間の排除」の責任を求めなければならないだろう。というのも、上の引用に見られるように、フーコー自身は時間というファクターに十分意識
的だったからである。

覚え書き〜動物保護について

最近、フランスでも「動物性」をめぐる思想が流行っているのですが、その思想が結実するのはやはり動物保護、あるいは動物愛護の問題においてでしょう。
なので、この問題についてネットで調べてたのですが、やはり嫌な気分になりますね。
とりあえず、分かったことを幾つか、備忘録としてまとめておきます。

・悪質ブリーダーの問題。
こちらのサイトが詳しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/knd_pev77/61745438.html
動物の商品化が進み、投資の対象になった結果です。
そもそも「ペット(=商品、動産)」という発想に問題があると思う。
ドイツでは動物が欲しい人は、ペットショップよりも先に保健所に行くようです(詳しくは下に)


・動物愛護保護法とその改正
「動物保護法」についてはこちら。
http://aigohou.doginfospace.com/
やはり、悪質ブリーダーを叩く根拠は動物保護法だけなのだから、武器はきちんと点検したい。

動物保護法の問題点。
http://www.alive-net.net/law/kaisei2012/youbou_201010.htm
動物の殺処分の方法に「撲殺」があるのには驚きです…。

署名はこちら(ただし、改正の内容がまだ判然としていない気がします)
http://www.hogohou.net/notes.htm

・動物の殺処分について

「ドリームボックス」という名の殺動物マシーンの様子。
http://annesdiary.blog50.fc2.com/blog-entry-405.html

ドイツでは殺処分の件数がかなり少ないようです。
http://dogactually.nifty.com/blog/2010/04/post-b995.html
これが本当ならドイツはかなりの動物先進国ですね…。

・動物保護団体
アニマルレフュジ関西(他にもたくさんあるでしょうが)
http://drupal.animalrefugekansai.org/?q=ja/
震災直後から活発に動物救援活動をしているようです。


以上、備忘録でした。
まとめつつ考えたこととしては
①飼い主の啓蒙ほど大切なことはない。ただペットショップに行く前に保護団体からもらうことだけで、殺処分される動物を救い、悪質ブリーダーの駆逐に一役買います(もっとも、良心的なブリーダーが丁寧に育てた動物が買われなくなってしまうという難点がありますが。ここでも、悪貨は良貨を駆逐する)
②動物保護法を含めた政府・行政の対応を検討すること。ペットの話は意外と「道徳論」に陥ってしまうことが多い気がしますが、こういう制度的な観点も大事にはしたいですね。
③ある社会が動物とどのような関係を持っているのか、ということはある社会の特徴を現す一つのメルクマールだといえなくもないかも。動物愛護闘争を賦活するためビジョン。こういうのを考えないと後手後手になる。ここが思想家のがんばりどころか。

おまけ。
ドイツの本屋で見かけたので買いました。
話は「動物を食べること」についてで少し異なりますし、ちょっと文章が読みづらいですが、内容はかなり興味深いです。

Eating Animals

Eating Animals

ビン・ラディン死亡を祝うアメリカ人

 ビン・ラディンが死亡したというニュースが流れてから、早2週間が経った。死亡ニュースの後、すぐにアメリカ人たちはグラウンド・ゼロに集まり、彼の死を祝ったという。
当たり前だが、普通は人の死は祝祭の対象ではない。喪に服すものだ。しかし、ビン・ラディンはどうやら「普通の人」ではないらしい。いわく、「テロリスト」、「正義の敵」、「諸悪の根源」など等。普通の人ではなく「悪魔」である以上、その死を祝うことに問題はないのだろう。

 このようなニュースを見ると、「例外とテロリストのイメージ」という考えが根深く存在することを痛感する。

 自爆テロは「死を恐れない」。だから、最終的には死をもって脅す(死刑)法のコントロールの外に、テロリストは存在する。法の例外としてのテロリスト。だから、国家もテロリストに対しては超法規的な措置を、国民の安全(セキュリティ)への配慮の名の下に、取る。

 通例、法律とは国家の権力乱用に対する一種の歯止めとして働くべきなのだが、国民のセキュリティ維持の名の下に、法律は無視されてしまう。無論、国家としては、自らの自由な介入の足かせである法律は無視できるにこしたことはない。そこで、「国民のセキュリティ」というお題が、戦略地点として援用される。こうして、テロリストは悪魔であり、放っておいたらあなたたちに危害を加える者である、というイメージが流布される。繰り返しになるが、このイメージ戦略のおかげで、国家は国民の名のもとで足かせとなる法律を超えて、自由に介入する契機を得るのである。
ビン・ラディンのケース、アフガンのテロとの戦いでは、タリバンの兵士が、ジュネーブ条約によって規定された戦争捕虜としてではなく、例外として処理されたこと、グアンタナモで拷問にかけられていたことは忘れてはならない。

 もう一つ「悪魔」のイメージで想起しておくべきことは、共通の敵をでっちあげることで、国民の統合が促進される、という戦略が存在することであろう。13世紀にヨーロッパは政治的な危機を経験したのだが、その時にヨーロッパ外のイスラム教徒たちのイメージは、両義的な感情を引き起こすそれまでの「怪物」から、徹底的に破壊すべき「悪魔」へと変化させられという。その目的はもちろん、ヨーロッパ内部の結束力の強化である。かくのごとく、タリバンは、いわばスケープゴートとして用いられているのだ。ビンラディンの死で、オバマの支持率は9ポイントあがり50パーセントを久しぶりに超えたことを思い出しておこう。

フランス語作文の練習について

フランス語作文の練習について感じたことを、幾つか書きだします。

その前に。
大賀先生の参考書『現代フランス語作文のテクニック』にも書いてあったことですが、読解力の涵養が第一です。

現代仏作文のテクニック

現代仏作文のテクニック

その読解力の目安としては、les cles junior(中学生ぐらい向けに作られたニュースサイト)を読んでも分からない文や単語がが5個も10個もない、ぐらいでしょうか?
(サイト;http://www.lesclesjunior.com/
基本的な文法事項(冠詞・時制・関係詞等)を理解して、それなりの語彙を覚えていないと、書いた作文を直されたところで、自分の間違いが理解できません。これは困りものです。ですので、自分は読解力がないなと思う人は、作文の前に読解の練習をすることをオススメします。基礎的な読解のための教材は上にリンクをはった、les cles juniorの記事がいいと思います。ニュースも仕入れられますし。

作文に話を戻しますが、文章を書く際にまず大事なのが、表現パターンの収集です。
たとえば、「〜について」は(ニュアンスの違いを捨象して)
sur, 〓 propose de, au sujet, 〓 l'〓gard de, concernant, etc.
があります。
新聞記事や論文に目を通す際に、「これは」と思った表現はノートに取り、暇なときや作文中に見返しましょう。
知っている単語を増やすのも大事ですが、作文にはむしろこういった表現パターンの方が重要です。
これらを調べつつ、あとは実際に書く。そして一番大事なのが、ネイティブチェックです。これがあるのとないのとでは、天と地ほど違うと思います。冠詞や名詞の単数・複数はマズ間違いなくなおされると思います。その際には、なるべく理由を聞いてみましょう。

フランス留学tips その3〜銀行・ネット開設

現在、フランス留学のあれこれについて備忘録的に記しております。
今回は、銀行口座開設、ネット等の身近な事柄について書き記します。
その前に。
フランスに着いたら、可及的速やかに携帯電話を買いましょう。住居に固定電話がない場合がありますので、その際には携帯がないとほぼ全ての事務手続きが不可能となります。
好みによりますが、僕は無理に契約しないで、プリペイドの安い携帯(29€ぐらい)でいいのではないでしょうか。いちいちサインする手間が省けて楽ですし。一般的によく使われるのは、SFRというブティックです。お店に行って、欲しい携帯を決めて、後は買うだけです。なお、プリペイドといえど、一応パスポートか滞在許可証が要るので気をつけてください。


・口座開設
資産を全て現金化してフランスに来る人でない限り、現地での講座の開設は必須だと思います。
しかし、この手続きもなかなか面倒…。
以下、僕の事例を載せておきます。
フランスに到着直後、自宅の近所のCaisse d'Epargneという銀行に向かいました。口座を作りたいと窓口の係員に言うと、「午後に来てくれ」と言われ、再度午後に出向きました。そこで、店員と面談をすることに(もちろん、フランス語)。
聞かれる内容としては、
・フランスには何で来ているの?(滞在目的)どれぐらい滞在するの?(滞在期間)どこに住んでいるの?(住居)お金はどれぐらいあるの?私費?(資産)
・あとは口座の説明です。普通口座と貯蓄口座の説明、などなど。もう、記憶から飛んでしまいました…普通の口座を開設する、と言えばそんなにひどいことはされないと思います。
必要な書類は(覚えている限りで)、
・パスポート、住居契約書(他での代用可か)、学生証、滞在許可証、電話番号(書類ではないが)
等です。ちなみに、僕は到着翌日に銀行に行きましたので、学生証と滞在許可証は持っていませんでした。ですが、それらに関しては「取得後に持ってきてくれればいい」というフレキシブルな対応をとってもらい、その場では必要なかったです。この辺の臨機応変はフランスならではですね。
以上で面談は終わりです。その後、クレジットカード等が銀行に届いたら、あちらから電話がかかってきます。その際にアポをとり、カード等を受け取って無事手続き終了です。

・ネット開設
うちはFreeboxというのを使っています。ネット・電話・ケーブルテレビがセットになっています。
この会社は完全に電話かネットでのみの対応になっているので、まず携帯電話か固定電話がないと話になりません。
電話をかけて聞かれる内容は、
・名前・住所・メールアドレス(フリーメール可)、昔の住居者の使用していた電話番号(わかれば)
これだけ教えられれば、あとは向こうが機材を郵送してくれます。一週間ぐらいで届いたと思います。
先輩にDartyと契約したという方がいます。Dartyというのは家電量販店で、店でネットの契約が出来る、というのが一つの長所です。ただし、実際にネット開通するのに2ヶ月かかったとおっしゃっていました…その間は、ずっと近くのマクドナルドでインターネットに接続していたそうです!これに限らず、到着当初は外でネットに接続する必要が生じると思いますので、資金に余裕があれば日本で小型の安いノートパソコンを購入しておくことを切にオススメします。