何が抵抗なのか?−潜在性を現実のものとすることとして「自己への配慮」

『ゴーストの条件』…現代におけるキャラクターは、ある種の容器(ゴースト)として機能している。つまり、キャラクターは「空っぽ」ってことであり(もしくは、人はその容器に「自己投影」をしている、ってことかもしれないけど、「からっぽ」だとして話を進めます)、キャラクター群は物語を通して厚みを帯びる「登場人物」として受容されることもあるが、その契機はどんどん少なくなっている。むしろ、キャラクターは形式的条件(いわゆる「萌え要素」)によって規定され、受容されているのではないだろうか。たとえば、〜はx(巨乳・貧乳メガネ、金髪、ツンデレ、ロリキャラ、お姉さん、云々…)。その背景には、私たち自身も、ますます形式化されていく事態があるだろう。たとえば、〜はx(東大卒、Fラン、年収1000万、足が短い、顔が可愛い、イケメン、不細工、キャンキャン系…)。ますます近代化する社会にあっては、「人は見た目が九割」という発想も間違いではない。現に、わたし自身も人をまずは見た目で判断している。その上で付き合ってみると、思ってもなかった一面とかが垣間見られて、厚みのある「人間」としてその人が見られるようになっていく。
 このような、人を外見、形式で判断すること、「キャラ化」は、権力諸関係と無関係ではない。フーコーのいう権力関係とは、端的に言って、物と物、人と物、人と人との「関係の様態」である。決して、権力とは「あいつは権力をもっている」という「所有」の形式では語られないことに留意したい。たとえば、ミクシィフェイスブックなどSNSのインターフェースを通じて、私たちは人を形式で判断する思考に馴染んでいる。だいいち、「友達」の多さ・少なさは友達の「人数」で現れる。そこで「広げようマイミクの輪」のような、友達と交流するのではなく「マイミク」を増やすような発想が出てくる。
 さて、フーコーによれば権力関係の様態は大別して三つあるという。主権権力、規律訓練権力、生政治権力だ(もっとも、フーコーは「司牧権力」等の用語を導入して、この区分を見返すこともあったようだが)。主権権力は誰か一人に絶対的な権力がある事態を指す。権力者にとって、臣下(主体)は「殺すか、生きるままに放っておくか」の対象である。ところが、生権力(規律、生政治)にあっては、主体は「生かす、か死ぬままに放っておく」となる。権力関係の戦略は主体を「生かす」ことに重点を置く。したがって、公衆衛生や医療制度の発展を、権力関係は担うことになるであろう。
 「権力はつねに抵抗を共にする」というフーコーの言明は必要以上に難しく取られている感がある。端的にはこういう状態をフーコーは想定している。マクドナルドの店内に設置されたベンチに座るか否か。会社の側は店のそこかしこに座られたのでは商売上がったりので、イスを設置して、そこに座らせるようにする。もちろん、わたしたちは無反省に、店内で商品を購入したら、イスに座って食事を取る。しかし、こうしないこともできる。この多かれ少なかれ残された「不服従」の可能性をフーコーは「抵抗」と呼んでいる。この「曖昧な余地」で「従わせる―従わない」のゲームを行っている空間こそ、フーコーが「権力関係」と呼んだものの本質であり、それ以上でもそれ以下でもない。そういわれてみれば、こんな程度の事態は日常のどこにだって存在するだろう。これがフーコーが「権力はいたるところにある」と言っていることの内実である。パリの市内で自転車をこいでいるフーコーは、車とすれ違ったときに出さえ「権力関係」を感じ取っていたらしい(パラノイアな感じがしますが…)。
 この「服従をもとめる」規範にかんしては、道徳的なものと物質的なものがある。例えば「交通ルールを守りましょう」というのも、道徳の形式を取って人の行動をコントロールしようとする手段の一例である。かつては、この道徳の教えだけで、人はきちんと交通ルールも守っていた(らしい。犯罪率の例が示すように、過去は過度に美化されるので、実際にルール違反が今より少なかったかは分かりません。重要なのは、道徳規範が支配的に機能していた、ということです)
 他方、自動改札の例は物質的である。切符を通さないと改札があかない。東京に住んでいればほぼ皆があきらめて切符を買わされるが、フランスは自動改札など一切気にせず優雅に飛び越えている人が沢山いる。余談だが、フランスは改札のとび越えをその場で防ごうとはしない(日本だったらおそらく駅員が駆けつけてきて取り押さえるのだろうが)。そうではなく、定期的にチケットコントロールを車内や駅構内で行い、そこで切符をもっていない人にかなり高い金額を請求して、それで帳尻を合わせようとしているようだ。この点において、日本の切符事情は「規律的」(100パーセント切符を買わせようとし、かっていないものはその場その場で捉える、ミクロな視点。?)であるのに対して、フランスの切符事情は「生政治的」(結果として、全員が切符を買ったような金額を会社が得られればよい、という考え。マクロな視点。個々の人が必ず切符を買っているかどうかは、それほど問題に放っていない)。
 さらに言うと、このような背景には、民衆を道徳的にコントロールすることが可能かどうか、という「お国事情」がある。日本はかなり人種的は安定している国であり、学校・地域でおこなう道徳教育が比較的うまく機能し、行き渡っている。それに対して、フランスはヨーロッパ随一の「移民国家」であり、道徳規範を全人口に安定して行き渡らせる手段が乏しい。したがって、各人の規律を正す(個別のケースに拘泥する)よりは、よりマクロな視点からコントロールをするほうが「有益」であると考えられるのであろう。
 ここで権力関係を理解する上で重要な区別が出てきた。それは規律は、ミクロなレベル(つまり個人)を対象とし、そのため各人に行動を規制するがゆえに「過剰」になりがちである。他方、生政治は集団として人を統計的に処理するために、1か0かという発想はとらない。むしろ、平準化した際の数値を基準にして、介入を判断している。
 そして、権力関係のあり方は、範として個人のあり方にも影響を及ぼす。たとえば、規律的な権力関係が優勢であるところにおいて、人は「かけがえのない個人」となる。どういうことか。規律的権力関係の場にあっては、個人は徹底的に情報化される。生年月日、住所、氏名、から学校のテストでは各教科それぞれ何点を取り、日常の振る舞いは問題がなく〜。かくして、ある人間はずっと「その人」であり続ける。人格の多重化を論じつつ、「純粋に論理的に考えるならば、一般には、なぜ人格が解離せずに統一的なままに留まっているのか、ということの方が不思議なことである」と言い、「多重人格に陥らない一般の人には、あらゆる状況を貫通する骨太の同一性(アイデンティティ)や心理的な継続線が、あるのだろうか。そんなものはあるまい。私の同一性とは、結局、その都度の間主観的な関係のゲームの中で、割り振られた役割にほかなるまい」と指摘する大澤は正しい。この役割を振ってくる「間主観的な関係のゲーム」は、私たちが「規律」権力関係と名づけたものと同一である。
 ところで、権力関係の様態には「生政治」があることを思い出したい。これは統計的・確率的手法を用いて、結果を平準化することを目的とする。たとえば、各地域での犯罪発生率を調べ、その中で低い数値を「モデル」にして、犯罪発生率の高い地域の率をモデルにまで下げるように(例えば警察の監視を強化したり、住民の自主的な見回りを増やしたりする)ことである。他にも、「出生率」や「平均寿命」なども、生政治の特権的な領域であることに留意しておこう。では、生政治的な権力関係はどのように個人に影響を及ぼすのであろうか。
 おそらく、人は「他人と入れ替え可能な自分」を見いだすであろう。しばしば大澤が引き合いに出す例だが、阪神淡路大震災のときに夫に目の前で死なれた妻は「死ぬのは夫ではなく自分だったかもしれない」という感覚におそわれたという。「ひょっとしたらあの時殺されていたの自分だったかもしれない…」などの感覚である。「偶有性」こそが、生権力の関係のモデルが個人に及ぼすものである。偶有性は「人間が超歴史的に、本来的にもつ感覚」であるというよりは、むしろ特殊なタイプの権力関係のもたらした効果である。
 「生きづらさについて」という萱野の対談がある。本書は、「生きづらい」と感じる若者たちが、右翼的な活動に傾倒していくことを報告している。なぜか。自分の所属先がなく、グローバルな市場競争のもとで低賃金で働かされていると、自分の根拠がなくなっていると感じ、それが分かりやすい「日本国民」という御旗のもとに逃避してしまうという。
フランスでも移民排斥の運動は盛んであり、その中心的な担い手はやはり低所得層、不安定な雇用に従事する「フランス人(見た目がアフリカ系にもアラブ系でもない、というだけのことである)」たちであるという。
 生権力タイプの権力関係がもつ問題として、生命がコントロールされているということがよく挙げられる。自分自身の生命に対する把握がきかなくなっている、ということは確かに問題である。また、インフルエンザの予防として、体温監視カメラを導入し、37度以上の人間は「本人の自覚症状とは関係なく」呼び止められてしまい、検査を強要される。これは非常に気味の悪い出来事である。
 しかし、上述したもの以外の問題として、「人生の偶有性」という問題もまた生権力によって生じることは指摘しおくほうがよいであろう。規律権力関係は人を「個人化し、同一人物であり続けること」を要求する。他方で、生政治は人を「確率的なもの」にしてしまう(もっとも、茂木健一郎が指摘するように、「70%生きて、30%死んでいる」というのは、本来はナンセンスであるのだが)
 ところで、フーコーによれば、現代の政治闘争が要求する(すべき)ものとは、「根源的な欲求であり人間の具体的な本質として、彼の潜在的な力の成就であり可能なものの充満として了解された生で」であり、「権利よりも遥かに生のほうが、その時、政治的闘争の賭金=目的となった」のである。「生命への、身体への、健康への、幸福への、欲求の満足への『権利』、あらゆる弾圧や『疎外』を越えて、人がそうであるところのもの、人がそうありうるところのすべてを再発見する『権利』」を求めることが今日的課題である述べている(『知への意志』、p. 183。)
 ドゥルーズはまた「権力が生―権力となるとき、抵抗は、生の権力となり、種や、環境や、何らかのダイアグラムの経路に拘束されることのない生命の権力となる」といい、「人間の死に抵抗する力と機能の総体は、人間のなかにこそ、追求されるべき」と考えていたと言う。スピノザを引き、「人間の身体が、人間の様々な規律から解放されるとき、この身体にとって可能なことは測りしれない」とドゥルーズは述べる。
 しかし、「可能なもの」を追求することで、私たちはどうなってしまうのだろうか。確かに、私たちは「可能性が満ちている」。小林秀雄も述べたように、私たちはパイロットにも教師にも政治家にも「なれたかもしれない」。しかし、「私は私以外のものにはなれなかった」。人は可能性のなかを生きることはできないであろう。その場合には、私たちは「何でもないもの」になってしまう。その潜在力を少しずつ導いてやり、一つの「作品」へと向かわせることが肝要なのであろう。「あらゆる規律から解放されよ」というスローガンはラディカルに見えるが、結局はむなしい結果に終わるのみである。そのことを発見したがために、フーコーは晩年に、可能性の現実化に関する思考を求めて、「自己」への配慮を説いたのである。
 この「修行」とその欠如は、現代のキーワードの一つである。養老はある本で今日のマンガのなかでは、修行の表現があまり見られなくなってきている、と述べていた。実際に、現代のスポーツ・格闘もののマンガにおいては、主人公は「最初から強い」のが多い(テニプリとかね)。また、コンサルタント等のビジネスマンによる仕事に対して内田樹がつけた文句は、「無時間的である」というものであった。mixiとかでも、友達の数は「マイミクの数」で表現されるものであり、時間をともにしたかどうかと言うパラメーターはあまり考慮されていない。若者の恋愛事情を述べる中で、宮台が若者に「関係の履歴」(時間性)をカウントしろ、と説いていたことも、ひっくりかえせば若者の恋愛はその場かぎりのタブロー化しているという考えがあるのだろう。かくして、現代の思考のパラダイムは「空間的」となりつつある。それは、一度はフーコーが「時間的」に対して切り開いたパラダイムであろう。
 フーコーは渡辺との対談の中で、自分の仕事を「空間的」と形容している。ベルグソンから多大な影響を(誤った形で)受けた彼の前の世代について、フーコーはある対談でこう述べている。「その特徴は、時間の分析を特権視し、しかもそのためには、空間を、死んだ、凝固したものとして無視していく態度にあると言えます。(哲学の舞台)」。それに対して、ブランショの『文学空間』やゴダールの『気狂いピエロ』は、空間の問題を扱っている。「しかし私には、<空間>がどのようにして<歴史>の一部をなしていたかを理化する」のが重要だと見えた。
 ところで、フーコーはこの講演の中で面白いことを述べている。彼の術語である「事件」について述べている。渡辺による、ヨーロッパ植民地主義の周縁と空間の問題構成化がほぼ同時期であるという指摘を受けて、フーコーは次のように述べている。
 
「第一には、ヨーロッパの空間だけが本来的な空間ではなく、一連の多形的な空間があるという自覚。第二には、唯一の歴史があるのではなく、幾つもの歴史、幾つもの持続、幾つもの時間が存在するのであり、それらが複雑に絡み合い、交叉する、そしてまさにこの交叉から<事件>が形成されるという自覚です。<事件>とは、<時間の線分>ではなく、二つの持続、二つの速度、二つの進展、二つの歴史の線の間の交叉点に他ならないのです。(哲学の舞台、p.33−34)」

私たちは現在、この「空間」のパラダイムがよりラディカルになった時代にある、と考えられるだろう。そこでは、時間は二次的になり、「修行」や「自己への配慮」といった私的な時間経験の喪失だけではなく、制度設計としての「政治的なるもの」への過度の系統もまた時間の喪失に他ならない(なぜなら、最も善い政治制度を適用すればどこでも同じ結果が得られる、という短絡にもとづいているからである)。もちろん、フーコーベルグソンベルグソン主義者を峻別して、安易な時間の特権視を後者のせいにしたのとどうように、フーコー自身とフーコー主義者(?)は区別されねばならない。そして、後者に「空間(タブロー)の特権視、と時間の排除」の責任を求めなければならないだろう。というのも、上の引用に見られるように、フーコー自身は時間というファクターに十分意識
的だったからである。