ビン・ラディン死亡を祝うアメリカ人

 ビン・ラディンが死亡したというニュースが流れてから、早2週間が経った。死亡ニュースの後、すぐにアメリカ人たちはグラウンド・ゼロに集まり、彼の死を祝ったという。
当たり前だが、普通は人の死は祝祭の対象ではない。喪に服すものだ。しかし、ビン・ラディンはどうやら「普通の人」ではないらしい。いわく、「テロリスト」、「正義の敵」、「諸悪の根源」など等。普通の人ではなく「悪魔」である以上、その死を祝うことに問題はないのだろう。

 このようなニュースを見ると、「例外とテロリストのイメージ」という考えが根深く存在することを痛感する。

 自爆テロは「死を恐れない」。だから、最終的には死をもって脅す(死刑)法のコントロールの外に、テロリストは存在する。法の例外としてのテロリスト。だから、国家もテロリストに対しては超法規的な措置を、国民の安全(セキュリティ)への配慮の名の下に、取る。

 通例、法律とは国家の権力乱用に対する一種の歯止めとして働くべきなのだが、国民のセキュリティ維持の名の下に、法律は無視されてしまう。無論、国家としては、自らの自由な介入の足かせである法律は無視できるにこしたことはない。そこで、「国民のセキュリティ」というお題が、戦略地点として援用される。こうして、テロリストは悪魔であり、放っておいたらあなたたちに危害を加える者である、というイメージが流布される。繰り返しになるが、このイメージ戦略のおかげで、国家は国民の名のもとで足かせとなる法律を超えて、自由に介入する契機を得るのである。
ビン・ラディンのケース、アフガンのテロとの戦いでは、タリバンの兵士が、ジュネーブ条約によって規定された戦争捕虜としてではなく、例外として処理されたこと、グアンタナモで拷問にかけられていたことは忘れてはならない。

 もう一つ「悪魔」のイメージで想起しておくべきことは、共通の敵をでっちあげることで、国民の統合が促進される、という戦略が存在することであろう。13世紀にヨーロッパは政治的な危機を経験したのだが、その時にヨーロッパ外のイスラム教徒たちのイメージは、両義的な感情を引き起こすそれまでの「怪物」から、徹底的に破壊すべき「悪魔」へと変化させられという。その目的はもちろん、ヨーロッパ内部の結束力の強化である。かくのごとく、タリバンは、いわばスケープゴートとして用いられているのだ。ビンラディンの死で、オバマの支持率は9ポイントあがり50パーセントを久しぶりに超えたことを思い出しておこう。