「まどか批評」あれこれ

まどか☆マギカ」、すごい面白いですね。予想を許さない展開に興奮して、一気に10話まで見てしまいました。どんな結末を迎えるのか全く見当も付かないので、素人の僕としては最終回を素直に楽しみにしています。

さて、はてなでちょっと話題のまどマギ批評「約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論」を読み、コメントを付け加えてみました。
やはりと言うか何と言うか、思想系の用語(ベンヤミンの神話的暴力とか権力関係とか)をちりばめている割には、文章の論理性はまったくないです。今日、「現代思想」系の言葉は、自分の意見、というよりは感情をオブラートに包んで表明するための道具なのでしょう。
僕の見る限り、「彼の心の叫び」はこんな風に要約できます。
「他のどのキモヲタより、おれがまどマギの素晴らしさを一番よくわかっているんだ!おれはまどかが大好きだ!異論は認めん!」

そんな「批評」を相手にしているわけで、暇のある方のみ僕の付したコメントをご笑覧ください。

「今、魔法少女―変身ヒロインとしての―概念は危機に晒されている。『魔法少女まどか☆マギカ』 に群がるキモヲタとサブカル評論家たちは、魔法少女概念を蹂躙し、ずたずたに引き裂こうとしているのだ。それが最終回を迎える4月ごろには既に、この王国 には荒れ果てた大地しか残されていないだろう。われわれは簒奪者たちの手から魔法少女概念を救出しなければならない。それも、正しい魔法少女概念を、であ る。そのためには、『まどか☆マギカ』の正しい批評が必要なのである。」


…最初から「正しい魔法少女を理解している俺」と「魔法少女の概念を全く解さないどころか、歪曲させる愚劣な大衆」という勝手な二分法が叫ばれています。しかし、肝心の「正しい魔法少女概念」が何をさしているのかがまったく示されていません。最後まで読み、さらに僕なりの解釈を加えると、次のような意味でこの言葉を用いているようです。

・「誤った(堕落した)魔法少女」…「なのは」に代表される「神話的暴力の元締め」としての魔法少女(またこの「神話的暴力」という言葉の意味が明確に定義されていない。普通は「法律を作り、維持するために必要な暴力」を意味するはずなのですが、文中では「暴力的な運命」の言い換えのようです)
・「正しい魔法少女」…これが、まどか。「神的暴力」の担い手。この神的暴力は文中では「罪と贖罪の交換関係そのものを破壊する暴力」(?)と呼ばれています。この「神的暴力」は意見の割れる難しい概念です(デリダはここにベンヤミンの議論の瑕疵を認めたそう)。大澤真幸先生は「神に比せられる超越的な他者が不在であるとき、正しい行為を自らの責任において選択するということ」という解釈されていますし(詳しくはこちらの論考をご覧ください。http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/shikei-sonchi.htm)。
まあ言葉に惑わされずに大まかなイメージをつかむと、こういいたいのだと思われます。
・ダメな魔法処女…力があるだけ(明らかに、StrikerSのなのは。巨大な力を、「正義」の名の下に、ふりかざしている嫌なヤツ。)
・正当な魔法少女…自己犠牲的(魔法によって、かえって自分の魔法を使う能力を喪失してしまうような)


…とつらつら書きましたが、この辺で僕はギブアップさせていただきます。
中盤から「罪と贖罪の交換関係」を魔法少女は前提とし、「魔法少女は、何も知らぬままにその法を侵犯し、法の侵犯によって罪が与えられる(原文ママです。普通あたえられるのは「罰」ではないでしょうか?)」や「外部によって挿入された世界の主観的な変容を、自身が内なる法として遡及的に受け入れることによって、魔法少女の契約は成立する」云々、とあります。
しかし、僕には意味が分かりませんでした。

(追伸)
最終回でまどかは結局、「魔法少女の概念」になってしまいました。自己犠牲的という、彼の予想はあっていたのでしょうか?