フランス滞在記その一

フランスに来てから1ヶ月経ちました。一ヶ月で会話をストレスなくこなすようになるのは無理だということを、痛感しました。語学の壁は意外と高いです。オーラル・コミュニケーションのスキルアップのためにも、授業には多めに出ておこうかと思います。とにかく、フランス人に揉まれないと始まらないのが会話ですから…ご学友をつくらねば。(ゆくゆくは、DALFのC1、できればC2に肉薄できるレベルにまで一年でもって行ければと)

修論の執筆について
主題は、「晩年のフーコーにおける修辞学的言説と哲学的言説との差異について」で執筆します。内容はかいつまんで言うと、以下の通りです。
「修辞学においては、目的は発話者(師)の意図を的確に聞き手(弟子)の上に実現することが目指される。他方で、哲学的言説においては、発話者の意図を超えて、聞き手が発話者の言葉の内に示されていないことを「勘違いして聞き取り」、予想外の方向へ行ってしまう(文脈からの逸脱→パレーシア的発話)。では、修辞学的言説と哲学的言説との構造上の差異は、一体どこにあるのか。それは、哲学的言説が「真理」をを目指して進む対話である、という点にある(もちろん、唯一絶対の真理が客観的にあると思ってはいない。思っている「ふり」をしている。むしろ、絶対の真理には到達不可であることを承知の上で対話をしているともいえる(アド『古代哲学とは何か』)」
 ここで、パレーシア的発話の機能としてフーコーが着目したの点が、「現在とのズレ」(=出来事)であると言えると、博士論文の執筆が非常にしやすいです。僕の博士論文の暫定的なタイトルは、「ミシェル・フーコーのテクストにおける『出来事』とその効果について―」。《外》や「出来事」、「真理」など、これを示す言葉は結構あると思うのですが、主張は単純で「思ってもなかった自分に変われるための諸条件は何か。それが「真理」とか《外》で示されるものなのではないか(ハイデガーの「真理(アレーテイア)」は存在者にアイデンティティ=自己充足をもたらす…と思いますが、反対にフーコーの「真理」は他者性(alterite)=自己とのズレをもたらす)。なんか、『存在論的、郵便的』っぽい図式ですが、当面はこの作業仮説をもとに、フーコーのテクストを年代ごとにまとめ、内容の相違について再考してみます。たぶん、中期の権力論のくだりをどう始末するかがキモになってきます。