『日本の難点』ノートその1

昨年出版された、宮台真司『日本の難点』幻冬舎新書、2009のノート。一人の著者が頑張って広範囲をカバーした(ある程度成功している)もので、時間があったら再読しノートをとろうと思っていた。

はじめに(3-12)

・現代の人文知の収束点=「普遍主義の理論的不可能性と実践的不可避性」、その「不可能性と不可避性のギャップを、どう実践的=理論的に『橋渡し』するか」(5)
→図式としてはいいと思う。しかし、次の例を挙げた意図がよく分からない。「そうした流れの駄目押しが」、2008年の金融危機、いわゆるサブプライムローン問題に端を発する金融危機。このラグラム・ラジャン(スペル分がからず、検索かからず)等が、事前に金融危機の理論を構築していながらも、世界金融恐慌が発生した。僕も自信がないけど、経済理論では、「恐慌」は不可避の「現象」であり、実践で回避できるものではないと思う。
私見では、いささか「実践の不可避性」というときの、実践概念の定義が安易。旧来の「理論に準拠した実践(マルクス主義の問題、ハイデガーナチス加担など)」というものは、新たな「実践」の要請に応えられていない。この新たな「理論と実践の関係」が今日の人文知の問題。

・その理由…「社会の底が抜けた」=「社会システムの恣意性」。かつては社会システムの恣意性が「やり過ごされて」きたが、今日では、恣意性に誰もが気づいた(=ポストモダン化)(6-7)
↑普通、ポストモダニズムといえば芸術・美学の領野での事件なのに、宮台はここでは「郊外化」を、誰もが恣意性に気づいた理由として考えるのが興味深い。
 ・「郊外化とは図式的に言えば、<システム>(コンビに・ファミレス的なもの)が<生活世界>(地元商店的なもの)を全面的に席巻していく動きのこと」(7)
 ・後に見られるように、「システム」とは「ロールプレイ(そこでは個は捨象される)」で成り立つ社会、他方で「生活世界」は互いを認識している「お知り合いたち(個の身元が互いに認知される)」の社会。
→ 身近な「郊外化」と日本思想の関係を踏まえた上で、世界の思想を学ぶことの意義(7)
 ・アメリカが「世界」なのか?が、日本の歴史を踏まえたうえで、アメリカとの関係が重要なことは言を待たない。


第一章人間関係はどうなるのか
「若者のコミュニケーションはフラット化したか」
・裏の問題は、「合理的、戦略的」思考法の台頭、寡占をどう食い止めるか、だと見た(明示的に書かれていないが、合理的、合理的戦略など、合理的という言葉が頻用されているのは事実)。
 →そう考えないと、節の末尾に出てきた「金融投資選択の合理性」の話が理解できない。というのも、節自体の主題は、少数の人物に対する集中的コミットメントの減少、「他者による承認による自分の威厳の確保」という考えの衰退は、社会的な基盤の変化(人間関係の流動化、多様化)に応じる、ということだから、そう考えないと、この流動化と投資の金融商品への「合理的」集中との相関関係がよく見えない。
・節の結論は、社会基盤の「流動性自体の制御」となる。しかし宮台の意図は汲みはずすことを承知の上で、「合理的、戦略的」思考法による「何かの見落とし」という路線で読み進めたい。

ケータイ小説的―コンテンツ消費はどのように変わったのか」
・とりあえず、言葉の使い方がゆるい。せめて「関係性」に「関係の履歴」、「長い年月を経た関係」という意味をこめていることは断って欲しい。
ケータイ小説の特異性について
 「データベース的消費」との決定的な差異。データベース的・キャラ的(マンガ・アニメ)消費が「キャラ」の要素が収集・反復されるのに対し、ケータイ小説では「(滅多に起きない、暴力的な)事件」がストックされ、反復される。
・しかし、両者共に「関係性の否定」(24)という点では共通。
 ・たんなる事件の羅列としての『恋空』
→関係性が記号(無時間的なもの)、ドラマ等の一「シーン」へと圧縮、短絡化される傾向の台頭(ユーミンからドリカムへ、山下達郎の「クリスマス・イブ」をBGMにしたJR東海のCM)
  ・1980年代終わりに変化を見るのが象徴的)
・分からないのは、オタクがの位置づけ。関係性から退却する」(26)タイプとして、ケータイ小説的なものの一亜種と考えられている。本書出版当時はまだ「草食系男子」がメディアをにぎわせてはいなかったか。
・そこから派生して、さらに分からないのは「関係性の否定」がいかにして生じたか。単なる人間関係の流動・多様化だけではなく、「傷つくのがいや」というメンタリティの変化(『やさしさの精神病理』)のようなものが

「出版大恐慌、テレビも新聞も大凋落、マスメディアは生き残れるか」
・マスメディアに割かれる時間の減少は、情報の「マルチ・チャネル」化が理由ではない。そもそも、マスメディアが提供する「共通前提」が必要とされなくなった。なぜなら、共通の話題がないけれども、話し合う(合わねばならない)「場」が減少しているから。
 ・例えば、減った場としては、
  ・井戸端会議(人口の流動化)
  ・お茶の間テレビ(テレビの価格下落により、各人が個室にテレビを持てた。その結果として、80年代半ばからクイズ番組や歌謡番組の打ち切りを指摘するのが面白い。家族みんな(世代がバラバラ)で見られる番組が要請されなくなり、各世代向けに番組が多様化していったのだと思う。しかし、クイズ番組や一発お笑いが最近復活しているのは何故か。低価格化、だれでも「瞬時に」楽しめるものを追求した結果か?
   ・仕事後の一杯(なぜ、仕事後の一杯が80年代から減ったのかだけ、いまひとつ理由がわからない。)
・このような「場」の解体を加速する触媒として、ネットなどの情報通信技術の進展は捉えられるべき。オンラインコミュニティはこの流れを加速することこそあれ、純然たる原因ではない(ここの議論の論理的関係はもう少し丁寧に書かないと分からない。議論がやっぱり甘い気がする)
 ・オンラインでコミュニティが、「摩擦抵抗が少なく」作れることにより、先述したような「とりあえず共通の話題がないけど、人としゃべらなねばならない場」が減少し、ますますマスメディアが提供する「共通前提」が必要とされなくなる。このような「場」の減少が今日のマスメディアを取り巻く状況であり、決して「マルチ・チャネル」化は危機の原因ではない。
 ・(ところで、この「場」という語も、カッコつきなのには意味があることをきちんと説明しないと。「島宇宙化」した場なら、今日ほど溢れている時代はない)
・二つのマスメディアの生存戦略
 ・テレビ局や新聞社の正社員が30歳で年収1000万円も貰っていては、黒字は維持できない
本当にそう思う。「新聞が売れない」ことを公衆に非ありと強弁する前に自分達の収入を考え直して欲しい。
 ・それはともかく、コンテンツ作成価格の減少と、「高収入者層向けに作った手堅い情報を優良で配信すること」、以上二つがメディアが広告収入で生き延びるために取る(ことになる)選択。
 →この結果の予測が非常に重要かつ興味深い。今後のメディアは階層によって分断される。メディアが上述の戦略通りに動いた結果、それなりの情報(仕事や収入に直結する情報、いわゆる文化資本?)を享受できる「高所得者層」と、ネットで無料提供される類のもの((詳細な議論は読んでもらえず、結局はセンセーショナルなリード文を載せた人気取りの政権、外国叩きなど、ポピュリズムを煽るに過ぎないもの)しかアクセスできない「低所得者層」とに分けられる。その帰結として、新たなる「情報格差」が生じる危険性がある。